糖尿病の歴史20 中国の糖尿病の歴史 (1)
黄帝内経は前漢(紀元前206年 - 8年)時代に編纂された医学書です。原本は残っておらず、762年に王冰によって編纂されたものが伝わっています。黄帝内経には素問と霊柩があります。素問は黄帝が岐伯(きはく)など学者に質問をし、返答を問うたところから「素問」と呼ばれます。素問の中に糖尿病とみられる記述があります。
奇病論四十七
帝曰︰有病口甘者,病名為何,何以得之。
歧伯曰︰此五氣之溢也,名曰脾癉。夫五味入口,藏於胃,脾為之行其精氣,津液在脾,故令人口甘也
まず黄帝が疑問を発します。「口の中が甘くなる病気があるが、病名は何か?、何が原因で起こるのか。」これに対して岐伯が答えます。「これは五気があふれるからであり、脾癉という病気です。食物は口に入ると胃に蓄えられ、脾がその精気を運行させます。津液が脾にあり、そのために口が甘くなります。」
中国医学の脾は現代医学の脾臓とは別物です。脾は胃と一体になって働き、水穀から津液を分離し、肺の働きを通じて全身に配ります(津液は薄い体液を指します)。腎は全身に配られた津液を管理して、不用のものを膀胱に貯めます。脾が失調すると、津液の不足・停滞が起こります。ここでは脾が失調して津液が脾に停滞し、口が甘くなると答えています(中国医学では口は脾の状態を反映すると言われます)。
此肥美之所發也,此人必數食甘美而多肥也,肥者令人內熱,甘者令人中滿,故其氣上溢,轉為消渴。治之以蘭,除陳氣也
「これは肥満が原因です。この病気になる人は甘美な栄養豊富な食事を摂り、肥満になっています。肥満者は体内に熱が生じ、甘さは腹を膨らませます。そのため(脾が失調して)精気が上に溢れ、消渇を引き起こします(消渇も糖尿病の古い病証です)。これを治すには蘭草を用い、脾に停滞した古い気を除きます。」
甘美な食事で肥満が起こる、これが糖尿病の原因と見抜いています。いかがでしょうか。
平成27年7月10日
糖尿病の歴史19 ロロの食事療法 (4)
下記は、ロロが最初に指示した食事療法です。基本として動物性食品からなり、まさに「吐き気を催すまずい食事」です。
朝食は1+1/2パイントのミルクと1/2パイントの石灰水(1パイント=473ml)。パンとバター。昼食は血液と脂身のみから作った血液プディング。ディナーは、長期間保存した狩猟肉。胃が耐えられる限り、脂肪が多くて悪臭のする豚肉など。控え目に。夕食は朝食に同じ。
食事以外にも工夫をしました。主なところでは硫酸カリウム、酒石酸アンチモンワインが処方されました。硫酸カリウムは塩類下剤ですが、消化を抑え、糖の産生を抑えることを目的としています。酒石酸アンチモンワインも嘔吐剤・下剤です。アンチモンでできたカップにワインを入れておいておくと、化学反応を起こして薬ができます。余談になりますが、アンチモンカップは古代ローマの晩餐会で使われ、腹をすっきりさせて食べ物に向かっていたそうです。そしてアヘンの処方、これは鋭敏な胃の感覚を抑えるとしています。活動を抑える予備処方として、タバコとジギタリスも処方されます。運動はごく軽いものに留めています。アロエと石鹸による腸のお掃除も出ています。不思議な治療法ですが、皮膚に豚脂を塗ったり(飲んだ以上の量の尿が出る、これは皮膚と肺から水分が吸収されるからだ、その皮膚からの吸収を抑える治療だそうです)、クラウン硬貨の半分の大きさの皮膚潰瘍をつくりました。
10月19日に患者に治療計画を説明し、同日から開始した。早くも21日に変化が認められた。一日の尿量が12クォート(13.6L)から6クォート(6.6L)に減り、硫化アルカリ水の摂取も3クォート(3.3L)に減った。尿はそれほど透明でなくなり、中に浮遊物がでてきて尿らしい臭いがした。瀉血が効いたかもしれず、同日の本人の表現によれば腎あたりの痛みが軽く涼しく快活になったとのこと。
11月1日、尿は4クォート(4.5L)に満たず、色濃くなり、口渇も減少。飲水も2クォート(2.3L)になった。皮膚は湿潤、胃・腹部の深い症状が軽減。腰部の潰瘍部が痛むと訴える。便は悪臭が強い。硫酸カリウムが腎に悪影響をしていると考え、硫化水素水に変更。
眠前の麻薬は11月5日に止め、8日に豚脂を止めています。翌年(1797年)1月4日にロロは次の糖尿病患者には食事療法だけで良いと確信します。そして病気の改善とともに、メレジス大将の制限を解除していきます。
1月28日、 尿量36オンス(1L)、2月8日にジャガイモ許可。その後の尿は1クォート(1.1L)/日で、同量の牛乳を飲む。パン、ジャガイモを食べ、乗馬や散歩で疲れなくなった。キャベツなどの緑もの、煮た玉ねぎ、サラダ(酸っぱいソースなし)、マスタード、ホースラディッシュ、ラディッシュ、砂糖なしの紅茶、コーヒーを開始。
1797年10月にメレジス大将は冷たい湿った土地に従軍し、譫妄を伴う熱性疾患に罹患しましたが、糖尿病再発はありませんでした。1798年4月に「完璧な健康状態」とロロに手紙を書いています。メレジス大将の体重は糖尿病発症前105kgでしたが、11/28には73.5kgまで減少。その後は増加に転じ、12/30 83kg、1/28 87.5kg、3/15 93kgでした。
第2症例(陸軍大佐)も少しだけ紹介しておきます。治療後の経過です。
彼は変化を好み、極度に制限された単調な生活に耐えられなかった。家に帰った方がよかろうと思った。完全に良くならなかったが、満足できる結果であった。大佐は2月26日に退院、長旅に耐え、2月27日にポーツマスに就いた。途中不適切なものを食べ、胃腸を壊した。3月6日にビートルートを食べてまたお腹を壊した。3月9日に内科医から「好きなものを食べ、ワインを飲んで良い」と許可をもらい、病気が再発した。尿が甘くなり、量が増え、口渇が出てきた。
平成27年7月3日
糖尿病の歴史18 ロロの食事療法 (3)
糖尿病になる前の6ヶ月間、週に2-3回気分が悪くなって嘔吐していた。吐物は数日前からの食物残渣であり、酸っぱい味がした。メレジス大将は常に大食漢で、味付けが濃く脂肪の多い食事を好み、飲酒も多かった。これまで痛風発作が2回あり、同じく胆石発作が2回あった。2回結婚し、2人の子供がある。<中略> 糖尿病になる3年ほど前、精力的に軍隊生活をこなし、非常によく食べて同僚の注意をひいていた。病気は自覚せず、高い健康状態にあると考えていた。その後、それほど運動しなくなり、よく食べてはいたが、食欲や無節制はさほどでなかった。
メレジス大将は1796年6月にロロに糖尿病と診断され、10月までヤーマスで内科医の治療を受けます。
食事は動物食と野菜からなり、特別な制限はなかった。1パイント(568ml)〜1瓶のポートワインを毎日飲んでいた。馬に乗り、散歩していたが、疲れのため2マイル(3.2km)の距離を歩くことはできなかった。薬はヤーマスの著名な内科医のもとで処方を受けた。主成分は樹皮とミョウバンである。時に症状が改善し、熱も少なく、尿量も2-3クォート(2.3-3.4L)/日と少なくなったように思えたが、質的に変わりはなかった。糖が許可されて糖蜜の形で摂っており、かなりの量のスプルースビールを飲んでいた。これらが増えると病気が進行するように思えた。
結局、ヤーマスでの治療は奏功せず、同年10月に再びロロを訪ねます。
尿は一日で12クォート(13.6L)、一晩で7クォート(8L)出る。淡い麦わら色で、尿の臭いがなく、乳清と菫の香りがして、とても甘い。口渇は激しく、一日7-8クォート(8-9L)以上の水を飲む。舌は白っぽく、湿っている。口中はべとべとしていて、白い霜状の甘い味のする唾を吐く。食欲は変動し、時にとてつもなく強く、夜間など妙な時間に強くなる。
皮膚は乾燥し、非常に暖かい。脈はやや弱く、84/分を超えない。顔は赤らんでいる。頻繁に気分が悪くなり、苦く甘く粘性を有する吐物を吐く。食後に胃の痛みを訴え、それは30分ほど続く。いつも腎のあたりに痛みがあり、痛みは前方に拡がる。特に右に強く、触ると張った感じと圧痛がある。睾丸は退縮して、弱く冷たい感じがある。夜になると同じ側の下肢がむくむ。母趾の痛みもある。腹部に奇妙な痛みを伴った震えるような感覚があり、それは腎のあたりから拡がるように思える。
彼の訴えには、糖尿病以外の症状も混在しています。
さて、血液の甘さですが、
10月18日に56ml採血し、北向きの窓の内側に置いた <中略> ドブソンが書いたような外観・変化を呈したが、ドブソンの観察と異なって血清はそれほど甘くなく、自分にはレンネットで作成されるより濃い乳清の味がした。
血清が甘くないのは、「腎の働きが亢進していて、サッカリン物質(saccharine matter)が素早く血液から尿に移行するからだ」と考えています。
平成27年7月2日
糖尿病の歴史17 ロロの食事療法 (2)
ロロが初めて出あった糖尿病患者です。
1777年、思い出す限りでは5月か6月頃だったと思う。エジンバラの織工が糖尿病患者だった。彼は〜4ヶ月ほど王立病院に入院したが、良くならなかった。主治医は薬用植物学教授の故ホープ医師であった。彼が退院した時、ジョンストーン氏(当時は医学生)、そして私自身が彼を数日引き止め、経費を支払って採血・採尿し、その外観と自然変化を確かめた。私は血液と尿がドブソン医師が述べたとおりであったことをよく覚えている。文書とサッカリン抽出物は外国に行く際に持ちだしたのだが、1780年バーベイドス(注:西インド諸島)で台風にあった際に失ってしまった。それ以後、私はアメリカ、西インド諸島、英国でさまざまな病気を診てきたが、1796年になるまで糖尿病患者には出会うことはなかった。
当時、糖尿病はそれほど多くなかったようです。
次は1例目の患者さんについてです。
これまでも私は職業柄、メレジス大将と会うことがあった。彼は大きく太った男だった。そのため、私はいつも「彼はいつか病気になるだろう」と思っていた。1796年6月12日、メレジス大将が私を訪れてきた。会った瞬間に「小さくなったな」と驚いたが、血色がよく、それ以外は健康であるという印象をもった。しかし話し出してすぐにその逆であることがわかった。彼は大変な病気にかかっていた。何とかならないかと繰り返し医者に行ったが、良くならなかった。そこで彼は私に相談するため訪ねてきたのだ。仕事を整理し、ヤーマスにいる家族と余生を過ごしながら残った仕事をしたい希望があった。
彼は激しい口渇があり、強い食欲に悩まされていた。皮膚は熱く、乾燥してひび割れていた。脈は小さく、速かった。彼は古い病気、肝臓に問題があると考えていた。口渇、乾燥皮膚、頻脈は熱性疾患の特徴を持ち、どこか局所の問題だろう、それが食欲を亢進させていると考えていた。私はすぐさま糖尿病が頭に浮かんだ。彼に尿の状態を尋ねたところ、まさに糖尿病特有の量・色であった。同時に非常に驚いたことは、2-3ヶ月もの間、内科・外科の医師の世話になりながら、多尿について聞かれていなかった。患者のいうには「がぶ飲みするから、おしっこが多いのはあたりまえだろう」、尋ねられなかったくらいだから、彼は何も聞いていなかった。次回の排尿を捨てずに持ってこさせ、尿が甘いことがわかった。そして糖尿病という診断が確かめられた。私は内科医あてに手紙を書いた。
平成27年7月1日